ブレーキ

トヨタ車のブレーキのリコール問題が連日テレビや新聞で報道されています。
免疫は体にとって問題となりそうな生き物や物質(外から入るバイキンや自分の体の一部が変化してできる癌細胞を含む)を攻撃する仕組みです。以前の記事(働きすぎの免疫反応)で、目的とする敵がいなくなっても、あるいは敵自体は残っていてもそれほど問題をおこしていないのに、自分お免疫が戦いを止めない状態が困ったことをおこすことがある、という話をしました。免疫にはこのような困ったことをおこさないためにブレーキがあります。
今回は免疫のブレーキについて(参考にしたのは杏林大学皮膚科 塩原教授の一連の論文)。


免疫のブレーキとして有名なのは、制御性T細胞(せいぎょせいT細胞:Treg ティーレグなどと研究者は呼びます)というリンパ球です。血管の中にはいろいろなものが流れています。赤血球は酸素を運び、血小板は傷ができたときに血を止めるために、白血球は免疫を担当します。白血球のなかにはいくつかの種類があり、量が多いのは好中球とリンパ球です。好中球は細菌などを食べます。リンパ球は指令や炎症反応を起こす物質を分泌して免疫反応をコントロールする司令塔であるT細胞や抗体を作るB細胞などからなります。
制御性T細胞(せいぎょせいT細胞)は、この司令塔T細胞の中で免疫を抑えるブレーキ役の細胞です。この細胞がどんなことをしているのか? 参考:京都大学の坂口先生の説明など
例えば”がん”。がん細胞はこのブレーキ細胞を活発化させて、体の免疫を落とし、なるべく自分が攻撃されないようにしているらしいことがわかってきました。
また、化学療法を行うと白血球が減ります。それが回復してくるときに全身に皮疹がでることがあります。調べてみると体の中に潜伏しいたウイルスが活動し始めた場合があります。免疫が回復してきたのに何でウイルスが増えるのか?
杏林大学の塩原先生は、ブレーキ役のT細胞が増えてくるからではないかとおっしゃっています。非常に重い薬アレルギーに薬剤誘発型過敏症症候群(DIHS)というのがあります。これは、けいれんを抑える薬などを飲みはじめてから2-6週後に全身に皮疹や肝臓障害、高熱などを起こす薬疹です。普通の薬疹は薬を止めれば治りますが、この薬疹は治りません。長い間ホルモン剤の内服が必要です。この薬疹の出始めからしばらくしてヒトヘルペスウイルス6型というのが体のなかで再活性化(さいかっせいか:おとなしくしていたのが急に活動を始める)していることがわかりました。このウイルスは赤ちゃんのときになる突発性発疹の原因ウイルスで、ほとんどの大人は体の中に持っています。この薬疹でも、ブレーキ役のT細胞が増えて免疫をおさえるのでウイルスが増えるのではないかと塩原先生は述べておられます。この薬疹ではヒトヘルペスウイルス6型の増殖が終わった後も、サイトメガロウイルスやミズボウソウのウイルス、EBウイルスといった普段みんなに潜伏しているウイルスは次から次へと再活性します。そのうちブレーキ役のT細胞が疲れてしまいます。すると今度はブレーキが効かなくなる。この薬疹が治ったあとにいろいろな自己免疫疾患(じこめんえきしっかん:自分の免疫が自分の臓器を攻撃し壊してしまう病気)が起こることが知られています。有名なのは膵臓への攻撃で、糖尿病になってしまう方がいるのです。
ただ、単純には説明できないのが免疫の複雑なところです。サルコイドーシスという病気があります。理由なく体中に肉芽腫(にくげしゅ:組織球という細胞のかたまり)ができる病気です。肺の結核でできるかたまりも肉芽腫です。何か邪魔なものがあったとき、それを細胞で包み込んでカプセルのようにしてしまう現象です。たとえば皮膚の深いところにカビや棘などが入るとこれらを囲んで肉芽腫というカプセルができます。棘は小さいのにカプセルはでかくて、本人としてはカプセル(免疫反応)の方が問題となります。結核も菌自体よりはこのカプセルが問題を起こします。
もどします。サルコイドーシスでは活発なブレーキT細胞が2倍に増えていることがわかりました。ブレーキが効いているのになぜ?たった1種類の細胞がすべてのことを行っているのではなく、大きなネットワーク全体で免疫反応はおきているんでしょう。
今回はいまひとつ消化できない文になってしまいました。もう少し勉強します。
さて、最後に駄文を。年を経るごとにすぐ思い出が頭をよぎります。
高校の物理の授業でギャングというあだなの先生が「なぜ自動車の最高時速は200km以下なのかわかるか?」という質問をしたことがあります。彼いわく「安全に止まれるブレーキの限界がそのあたりだからだ」と。ブレーキが先で、駆動系はその後だ、とのこと。なるほどと思いました。先生はあだなのとおり、サングラス風のちょっと濃い目の眼鏡をかけた非常に怖い先生で、作業服とゴム草履がトレードマークでした。授業もぶっとんでいて、数IIIの知識では理解が不十分になるからという理由で、まず大学で習う高度な積分の講義から始まりました。当然、試験はいつもかなりの難問で、一つ上の学年では、平均点が8点なんていうこともありました。ガリ版刷りの資料や試験問題の字が活字のように非常に整っていて、その字をみただけで問題が難しく感じるような感覚を植えつけられてしまった記憶があります。最後にお会いしたのは、大学合格後に卒業証明書を取りに職員室に行ったときでした。意外な顔をして「なんだ。お前か。」というのがお言葉でした。卒業してしばらくして先生は急死されました。多くの生徒に慕われた先生でした。

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