18歳の少女の死とColey先生の免疫療法とロックフェラー(1)

前の記事よりの続き

がん免疫療法の歴史を語るときに、まず出てくるのが1890年代のNYの外科医William Coley先生が行った治療です。

Coley先生が手術だけでは患者を救えないと思ったのは、17歳の少女の腕にできた肉腫の手術をした28歳のときです。少女の名前はElizabeth (“Bessie”) Dashiellといいます。17歳のときに肉腫と診断され、Memorial病院の当時28歳の外科医のColey先生は彼女の腕を1890年の11月に切断しました。しかし病気は再発し、1891年の1月に彼女は18歳の若さで亡くなりました。きちんとした手術をしたにもかかわらず再発して亡くなったことにがっかりしたColey先生は考えます。

参考文献

Bickels J, IMAJ 2002

今年は梅雨明けが遅かったですね。常念乗越から見た空はまさに”夏”でした。今年も夏のデューティーの1つがクリアーできました。

Coley先生は文献を調べます。

参考にしたサイト What Ever Happened to Coley’s Toxins?

Coley先生は20年以上前の1868年にBuschという先生が、頸部の軟部肉腫が丹毒後に縮小した症例を報告した文献を見つけます。この頃、丹毒の原因は不明であり(1881年に溶連菌と判明)、この肉腫 の患者は術後に院内感染を起こしたようです。ただ、丹毒後の腫瘍縮小は部分的であり、すぐ に元にもどってしまったようです。

手術の無力さに失望したColeyはBuschの報告を知り、自分の病院のカルテ庫を探しました。そして、何度も切除と再発を繰り返したある肉腫患者が丹毒になった後に完全に治ったというカルテを見つけだしました。7年前のカルテだったようです。Coley先生は患者さんの住所を突き止め、患者さんが再発なしに生きていることを確認しています。

がんに細菌が感染することで、何らかの反応が起きてがんが小さくなる可能性があることを知ったのです。Coley先生はその後がん患者に溶連菌とセラチアを混ぜたものを投与します。これがColey’s toxin(コーリーの毒)です。彼がこのアイデアを思い付いたころ、放射線の発見と放射線の治療が患者を問わず効くことがわかり始めていました。また抗がん剤も出始めました。アメリカのがん学会が、Coley先生の治療法を認めなかったこともあり、Coley’s toxinは裏街道を進むことになりました。

しかし、William Coley先生はこの治療法を引退までの40数年間、1000人の患者に行いました。ただ、医学会からは認められませんでした。

さて、Coley先生がうまく治療できなかった少女Elizabeth (“Bessie”) Dashiellは今から125年前に亡くなりました。彼女の死はColey先生の溶連菌を用いたがんの治療の他にもう一つ重要な価値を生み出しました。長くなったので次の記事で書きます。

 

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