釧路空港に行くまで時間があったので細岡という展望台に連れて行ってもらいました。すごい眺望でした。手前に蛇行する釧路川、湿原をはさんで地平線に雄阿寒岳、雌阿寒岳が鎮座します。広大な湿原は縄文の時代は海だったそうです。こんな景色はやっぱり原始を残す北海道ならではです。四半世紀前に行ったケニアのマサイマラの平原や大地溝帯を見た時のような感じがしました。
景色を見ながら、縄文の集落が消えていったのは(少なくても初期は)決して弥生人による侵略(人的な勢力争い)ではないと思いました。定住と安住の束縛(まだ見ぬ地への不安あるいは先住民がいる地へ乗り込むことによって起きるであろう戦いへの懸念)から徐々に住みにくくなっているのもかかわらず(変化があまりにゆっくりだったから)先祖伝来の安住の地から離れることができなかったのではないのでしょうか。
関連記事 縄文人が持ってきた病気
弥生人が持ってきた病気
冠雪した旭岳と十勝岳
定住と安住の束縛(まだ見ぬ地への不安あるいは先住民がいる地へ乗り込むことによって起きるであろう戦いへの懸念)から徐々に住めなくなっていく土地から離れることができなかったのではないのでしょうか。ゆっくりと迫る危機(縄文においては寒冷化によって海が遠のき、食物が減っていく)にはわかっていても、なんとなくなんとかなると考えて積極的に対応をしないのは今も昔もいっしょです。
青森の三代丸山遺跡の資料館では寒冷化により縄文の集落の人口が減っていったことがわかります。じゃあ本州の西の方の人口が増えたかというと北の縄文集落の人口の減少に比べて西日本の人口の増加は多くはありませんでした。
縄文の末期にはこんな会話があったのでしょうか
「ひいひいひい爺さんの時代から海が遠くなった」「夏は寒くなり、雪が大地を覆う時間が長くなった」「作物は取れなくなった」
西には暖かい地域があるという情報はあったのかもしれません。でも、先住民のいる地域に移住する危険はおかせず、食糧難によりじりじりと人口が減っていったのかもしれません。
・・・・今回は完全に個人的な印象で書いた記事です。