メラノーマとは?

昨年9月の公開ですが、メラノーマについて一般の方向けの説明サイトを監修しました。

悪性黒色腫(メラノーマとは)/がんを生きる(MSD)

30年分のメモ帳です。あっという間でした。断舎利難しいです。

1990年のメモ帳の裏表紙には買ったばかりのNECのノートパソコンを使う時のコマンドプロンプトが。ハードディスクの容量も1Mちょいしかありませんでした。今なら写真1枚も入りませんね。

赤ちゃんの目のまわりりやほっぺに白いブツブツができている

稗粒種(はいりゅうしゅ)
眼の周りに1㎜程度の小さい白いぶつぶつがたくさんある
稗粒種(はいりゅうしゅ、と呼びます)はありふれた皮膚の症状です。顔、特にマブタや眼の周りの皮膚によくできます。中に詰まっているのは角質(垢、アカ)です。赤ちゃんはほおっておけば自然に消えます。
この数年間、数十年間効く薬のなかったメラーマの新薬の開発に関わってきました。イピリムマブ(商品名ヤーボイ)、ベムラフェニブ(商品名ゼルボラフ)、インターフェロンα(商品名ペグイントロン)、ニボルマブ(商品名オプジーボ)、ペムブロリズマズ(商品名キイトルーダ)です。薬剤を世に出すために支えてくれた臨床研究支援センターの方たちが送別会を開いてくれました。お礼を言わなければいけないのは私の方です。本当にお世話になりました。

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2016年 大晦日

大晦日です。当地は雲一つない晴れでした。

21時を過ぎました。紅白はRADWIMPSです。今年1年を振り返ります。

お供え餅、今年もじょうずにできました。今年は息子作です。後ろの花は20代から30代にかけて一緒に働いた看護師さんからいただいた花です。梅の花が咲きかけています。

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かぶれと人間関係2016

記事のネタ探しに苦労してます。そこで以前書いた記事を見直してみました。このブログを始めた頃の2007年に書いた「かぶれと人間関係」という記事を見つけました。今日、全く同じ内容の会話を患者さんとしましたので2016の記事として再掲します。

今日の会話

1カ月前より両方の下まぶたから頬に赤い皮膚炎ができた。とてもかゆい。眼科で目薬をもらったが治らない。80歳代のご婦人の両方の下まぶたからほっぺにかけて逆三角形の発赤がある。とってもかゆい。皮膚科医はすぐ原因が浮かびます。そして皮膚科医と患者さんの間で(たぶんこれからも)永遠に繰り返される会話は以下です。

「使っていた目薬はなんですか?」

「000製薬の目薬です。でも30年以上ずっと使ってたんですよ・・・」

26年務めた当施設を離れることになりました。ずっと病理組織を一緒に見てきた病理の先生が特注のプレートを作って贈ってくれました。(開業はしませんよ)

皮膚科の若い先生たちと外来の看護師さんがゴールドの聴診器を記念にくれました。メラノーマの免疫療法剤治療が始まってから、自己免疫性の副作用の間質性肺炎の発見のために若いころに使っていたぼろぼろの聴診器を引っ張り出して使用してましたが、それを見かねてのことだと思います。聴診器の削り出しのカーブがスーパーカーのカウンタックのように切れていてカッコいいです。大切に使います。

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指にトゲ刺した 腫れた 治らない

今回のテーマは、指にトゲなどを刺した(つまり何かケガをした)後に、赤く腫れてきた。

・・・普通はばい菌が入ったと思うので抗生剤(抗菌剤:ばい菌を殺す薬)を処方します。

・・・1週間薬を飲んでも指の赤身と腫れが治らないどころか、赤みの範囲が手の平のほうにまで広がってきた。曲げるとものすごく痛い。

・・・血液検査でばい菌が増えているサインがない(CRP陰性、白血球増えない)+レントゲン写真を撮っても何も変化がない。

指一本が赤く腫れている。曲げるとものすごく痛い。

久しぶりに仙台に来ました。朝の散歩。愛宕神社というところに来てしまいました。

仙台でのミッションを終了して東京に移動です。もうすぐクリスマスですね。

 

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ERと皮膚

以前にも書いたことのある内容です。ずいぶん前”ER(救命救急室)”という救急をテーマにしたドラマをやっていました。救急ですから、皮膚科の疾患はあまり出てきませんが、研修医カーターが救急外来で診た帯状疱疹の患者の耳を見忘れたことを思い出し、患者の自宅まで行って玄関で耳の穴を見せてもらい、「大丈夫です。ありがとう。」というようなことを言います。耳に皮疹があると、めまいや難聴がおきることがありますが、症状がないならたぶん治療方法は変わらないのです。しかし、研修医のまだ患者側にいる美しさがそこにあります。また、名前は忘れましたがある研修医が処置用の手袋をしたとたんぶっ倒れたことがありました。ラテックスアレルギーです。1990年代に話題になったゴムに対するアレルギーです。

関連記事:ラテックスアレルギーとゴムの木の痛み

また、グリーン先生というERを支えた中心人物が、自身のがんの脳転移で病院を去るときがきます。心停止の患者の胸を切開し、手で心臓をわしずかみにしてマッサージするような現場に長年いた先生の最後の患者は棘を抜いてもらうために待っていた少女でした。(たぶん、多くの重症患者のために長い時間待っていたであろう少女の)棘を抜いた後にグリーン先生は、「私の最後の患者になってくれてありがとう」といいます。少女の父は「今日はこれで終わりかい?ご苦労さま。ゆっくり休めよ」というようなことを言います(すいません。自分の記憶のままに書いていますのでセリフは不正確です)。グリーン先生は、その後死ぬまでにやりたいことを紙に書き出し、すべてを実行して亡くなります。背後に流れるSomewhere over the Rainbow – Israel “IZ” Kamakawiwoʻoleがいいです。

個人的なことですいません。今日、新天地(以前住んでいたことがあるので本当は“再”ですが)で仕事をすることが決まりました。このブログは続けます。

小さく取るがん(癌)、大きく取るがん(癌)

がんの治療の基本は(完全に取れると予想されるなら)取り除いてしまうことです。がんを切除するときは、がんの組織を残さないように少し離して(正常組織でがん組織をくるむように)切除します。メスを入れるときに、がんのヘリからどれだけ離したか(距離)を、よくマージンといいます。今回はマージンについて。

ESMO(欧州臨床腫瘍学会)でコペンハーゲンに来ました。7時すぎにやっと明るくなり始めました。ホテルのそばの運河です。寒いです。

壁全体がぼろぼろの布で覆われたビルがありました。写真を撮っていた方に聞いたら「Artだ、たぶん」と言われました。

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18歳の少女の死とColey先生の免疫療法とロックフェラー(2)

前回の記事(18歳の少女の死とColey先生の免疫療法とロックフェラー)より

少女Elizabeth (“Bessie”) Dashiellは、1890年にNYの外科医William Coley先生(当時28歳)に肉腫の手術を受けました。腕を切断して腫瘍を完全に取り除いたにもかかわらず、転移を起こして翌年18歳の若さで亡くなってしまいました。今から125年前のことです。彼女の死に手術の限界を感じたColey先生によって溶連菌を用いたがんの治療(Coley’s toxin: コーリーの毒)を生み出されました。そして彼女の死は、もう一人の人物にも大きな仕事をさせることになりました。彼女の友人であるJohn D. Rockefeller Jr.、スタンダード石油の創始者であるJohn D. Rockefellerの一人息子です。

サイト The Legacy of Bessie Dashiell

関連記事 メラノーマは変異の多い腫瘍だ、でもそれが免疫の標的になっている

地元の高原で年に1回開催される草競馬を見に行きました。

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18歳の少女の死とColey先生の免疫療法とロックフェラー(1)

前の記事よりの続き

がん免疫療法の歴史を語るときに、まず出てくるのが1890年代のNYの外科医William Coley先生が行った治療です。

Coley先生が手術だけでは患者を救えないと思ったのは、17歳の少女の腕にできた肉腫の手術をした28歳のときです。少女の名前はElizabeth (“Bessie”) Dashiellといいます。17歳のときに肉腫と診断され、Memorial病院の当時28歳の外科医のColey先生は彼女の腕を1890年の11月に切断しました。しかし病気は再発し、1891年の1月に彼女は18歳の若さで亡くなりました。きちんとした手術をしたにもかかわらず再発して亡くなったことにがっかりしたColey先生は考えます。

参考文献

Bickels J, IMAJ 2002

今年は梅雨明けが遅かったですね。常念乗越から見た空はまさに”夏”でした。今年も夏のデューティーの1つがクリアーできました。

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